最低賃金は上がった。でも『壁』は残っている

ここ数年、最低賃金は本当に大きく伸びたと感じています。20年ほど前にアルバイトをしていた頃は、ここまで急激な賃金の変化はありませんでした。当時の感覚からすると、今の上昇ペースは隔世の感があります。先日、政府が掲げてきた最低賃金の目標を事実上先延ばしする、というニュースがありました。これを機に、労務の実務に携わる立場から、最低賃金と「年収の壁」の関係を整理してみたいと思います。

目次

「2020年代に1500円」目標の、事実上の先延ばし

政府は「2020年代に全国平均1500円」という最低賃金の目標を掲げ、これを達成するには年平均7%を超える高率の引き上げを続ける必要があるとされてきました。現在の全国平均は時給1121円。2029年度に1500円とするには、毎年7%超という、経営実態とかけ離れたペースの引き上げが必要で、経済界からは見直しを求める声が上がっていました。

今回、その目標が事実上先延ばしされる方向とのことです。それでも、数年前と比べれば、賃金水準が大きく変わったことは間違いありません。引き上げのペースが緩むとしても、「賃金は上がっていくもの」という流れ自体は、もう定着したと言っていいでしょう。

時給が上がると、税と社会保険の問題が顔を出す

ただ、労務の実務に携わる立場から気になるのは、時給が上がることで生じる、税や社会保険の問題です。いわゆる「年収の壁」です。

このうち、税の壁については、一定の改善が進んできました。所得税の課税最低限が引き上げられ、長く「103万円の壁」と呼ばれてきたラインが見直されています。働く人が、税を理由に労働時間を抑える必要は、以前より小さくなりました。

問題は、社会保険の壁です。「106万円の壁」「130万円の壁」は、依然として残っています。最低賃金が上がるほど、扶養の範囲で働くパート従業員は、より短い労働時間で壁に到達してしまいます。時給が上がった分、働ける時間がむしろ減る。結果として、壁の手前で労働時間を抑制する動きが出てきます。人手が欲しい現場にとっては、痛い話です。

税の壁(所得税)
課税最低限が引き上げられ、
103万円の壁は見直しが進んだ
一定の改善あり
社会保険の壁
106万円・130万円の壁は残存
最低賃金が上がるほど早く到達
労働時間の抑制につながる

さらに、正社員の初任給との逆転現象も起き始めています。最低賃金が急ピッチで上がる一方、正社員の初任給がそれに追いつかず、「最低賃金で働くパートのほうが時給換算で高い」といった事態も生まれています。賃金体系全体のバランスが、崩れ始めているのです。

本来は、最低賃金・税・社会保険を一体で設計すべき

本来であれば、最低賃金・税・社会保険は、一体として設計される必要があるはずです。最低賃金だけを引き上げても、税や社会保険の壁がそのままでは、働く人の手取りは思うように増えず、就業調整というひずみが生まれます。

税の壁の一部が改善されても、残された社会保険の制度との整合性が取れていなければ、現場のひずみは解消されません。「税の壁は上がったが、社会保険の壁は残っている」という、ちぐはぐな状態が、かえって混乱を招きます。実際、現場では「所得税の壁が上がったから、もっと働ける」と誤解した従業員が、知らないうちに社会保険の壁を超え、手取りが減ってしまう、という事態も起こり得ます。制度がバラバラに動くことの弊害です。

「喉元すぎれば」で終わらせないために

ところが、こうした構造的なテーマは、目標の見直しといった目立つ話題が一段落すると、喉元すぎれば熱さを忘れるように、議論されなくなってしまいがちです。最低賃金の「数字」は注目を集めますが、その裏にある税・社会保険との整合性という地味な論点は、つい後回しにされます。

引き上げのペースだけでなく、働く人の手取りと、企業の負担を、全体としてどう設計するか。その視点を持ち続けられるかどうかが、問われていると感じています。最低賃金を上げること自体は、方向として正しい。だからこそ、それを「働く人が本当に報われる」形にするために、税と社会保険を含めた全体設計の議論を、止めないことが大切だと思います。労務の現場で働く一人として、この構造的なテーマから目を離さずにいたいと感じています。

参考・出典

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本記事は報道・公表資料をもとにした筆者個人の見解です。最低賃金や年収の壁に関する制度は改正が続いているため、最新の情報は厚生労働省等の一次情報をご確認ください。

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